松前城を後にし、新選組二番組長・永倉新八の居住地跡を見学しに辺りをうろつきます。
永倉新八は、新選組二番組長のほか「撃剣師範」を勤めていたほどの剣の達人で、あの沖田総司よりも強かったとさえ言われています。池田屋ではリタイアした沖田、藤堂らの分まで戦い獅子奮迅の活躍を見せました。本当に頼りになる人だったのでしょう、伊東甲子太郎は新選組を分裂する際、厚かましくも「永倉か斉藤をくれ」と近藤に頼んだそうです。
仲間や同士が若くして散っていくなか、永倉は明治・大正(20世紀)まで生き延び、晩年は故郷の松前で過ごしました。現在、新選組の史実が詳しく分かっているのは、永倉が『浪士文久報国記事』や『新選組顛末記』などを残してくれたおかげです。余談ですが、伊東が戦力に欲しかった斉藤一も大正まで生きました。
と、そんな永倉大先生の居住地跡をどうしても見たいのですが、どこにあるのか今ひとつ分かりません。地図(赤で囲ったところ)上では近くまでは来ているはずなのですが。
何度も辺りを行き来していると、おそらくは同じ目的で近くをうろついている男性と何度も顔を合わせましたが、不思議に協力しようとはせず、むしろ「俺が先に見つけてやるぜ!」みたいな感じで対抗意識が芽生えました。
するとそのとき、
「何かお探しかえ?」
ジョギング中のご老人が声を掛けてくれました。グッドタイミングですよじいさん。
「この辺りに永倉新八という人の居住地跡が残っていると聞いたのですが…」
「ナガクラ??……分かんないなぁ」
え?松前に住んでるのに永倉新八を知らないの?まあ日本史的な知名度は皆無ではあるけれど。やっぱり自力で探そうと決意した矢先、
「そういえば、スギムラなんとかっていう新選組隊士の看板が立ってたなぁ」
……スギムラ?…すぎむら…杉村…!
杉村義衛!それだ!
そう、永倉新八は明治の世で杉村義衛(よしえ)と改名しているのです。私ともあろう者が、すっかり忘れていました。
ご老人に道を教えてもらい、こりゃ分かりにくいわ!みたいな道を進んでいくと、前から先ほどの男性が風俗から出てきたばかりのような、満足げな表情で歩いていきます。…どうやら先を越されたようですね。
かくして、杉村義衛こと永倉新八先生にたどり着きました。
畑の脇にひっそりと看板が立っていて、これ以外何もありませんでした。まあ居住地跡なのでそんなものかもしれませんが。ところで、看板にはしっかり『永倉新八』と明記してあり、杉村のすの字も書かれていませんが、さっきのご老人は何をどう記憶していたのでしょう。
いずれにせよ、松前で目的は果たしました。
本当はバス停近く(?)にある新選組隊士の墓にも行きたかったのですが、時間の関係で断念。予定通り、幻の軍艦『開陽丸』を拝みに行くことにします。